荻生村の草分けは、猿倉平左衛門と有倉九郎左衛門といわれています。450程前に移住して、猿倉は西川(高橋川)、有倉は高川(荻生用水)のほとりに居を構え、雑木林や原野を開墾して水田を開きました。次第に子孫が増えたり、各地からの移住者により、村を形成していったと伝えられています。
村の南側の上街道である長屋方面は、若栗・浦山・下立・内山方面から往還する人達や、荻生村の農家を相手とする鍛冶屋や日用品を売る商店もでき、町家風になっていきました。
猿倉・有倉の姓は全国的にも珍しく、両家とも元武士でしたが、刀を捨て、この地に帰農したといわれています。室町幕府末期の治乱興亡のはげしい戦国時代であったので、どこかの敗戦大名の家臣あるいは、ゆかりのあったものでないかと考えられています。
有倉は長州藩の家臣に有倉と書いて有倉(ゆうくら)と読ませた一家があり、その系図によれば、清和源氏で元能登の国から起り、後に長州の毛利家につかえたとの伝えもあり、同じ一族であったと考えられています。
猿倉一族は現在、猿倉を名来る家と、森田、下田を名乗る家とがあります。明治初年、戸籍法施行の際に、森田は藤右ヱ門、下田は三四郎の本家の所在地が通称森田、または下田と呼ばれていたので、それによって姓をつけたそうです。
猿倉一族の先祖の墓は寺坪の東方にあり、相当整った五輪塔だといわれています。また、有倉一族の先祖の墓は、長正寺の八幡にあり、共に往時を物語っています。
※写真は猿倉家の先祖のお墓です。