昔、「焼野(やけの)」と称し、一望「荻」が生い茂っていたところから荻生と名づけたと伝えられている。江戸時代の初め頃に黒部川の洪水によって二分されるまでは、いまの入善町小摺戸・青木にまで及ぶ大村であった。
本村は、荻生・長屋新・荻生新・箱根新・内野新・沖新・堂林新・清水新・大橋新・荻生五郎八開が明治22年(1889)統合して誕生した。
昔、箱根に裕福な大地主の長者がおった。愛本の粕塚の長者の娘をめとり、嫁入りの際、道に大きな鏡餅をならべ、その上を通って箱根まで来た。また、箱根長者の息子がうちあげ(婿呼)の際、愛本の粕塚まで九斗俵をならべて通るなど余りにもぜいたくを極めたのでついに財をなくし能登の国へ逃げた。その後、どこへ行ったか分らぬが、毎年初秋の頃に鬼火が能登方面から起り、転々として箱根に来て消えたと伝えられる。
一方、粕塚の長者も大地主で造酒屋を兼ねていたが大へんなけちで、付近の貧しい人たちが粕をもらいに行くと、お前たちにやる粕はないといって屋敷の裏に捨てたところ、この冷酷無比の心で酒粕が岩に化けたといわれている。
昔、八幡に悪いむじなが住んでいて、ある時は老婆に、ある時は若い女に化けて村人を悩ませた。村人たちが相談して村で一番力の強い五兵衛という若者を選んで、ある夜おそく八幡を通らせたところ、案の定、若い女に化けて腹痛を訴え、どこかの民家に連れて行ってくれと哀願した。それで、さあおんぶしなさいと背中にのせたところ、むじなは足を上にして逆さまにおんぶされた。これを「むじなおんぶ」といったそうである。むじなは、五兵衛が歩く度に両手で草や木につかまり、なかなか歩かさないようにしたが、さすが大力の若者五兵衛はとうとう民家まで連れて来た。村人と共に火天(囲炉裏の上につるした棚)の上にのせて、杉の青葉でいぶしたところ、ついにシッポを出して、もう二度とこの村へ来ないから許してくれと頼んだので放してやった。それから、再び姿を現わさなかったという。
昔、荻生中村の徳左衛門という農家に、きりょうのよい美しい娘がいた。ある年、旧暦の3月18日、愛本村明日の法福寺の御開帳に着飾って参詣したところ、途中愛本橋の下に住んでいた大蛇が見初め、橋のたもとに落した手拭を拾わせた。これに因縁をつけ若いきれいな男に化けて徳左衛門の家を訪れ、ついに娘のお登勢を自分の館へ連れて行ったという伝説である。
西瓜は明治16年(1883)、当村の結城半助が下新川郡役所から「トムワクソン」という西瓜の種子を貰い試作したのが始まりで、その後、稲垣吉郎兵衛、同豊次郎父子が東京から「アイスクリーム」その他数種を購入した。また、結城半助は「ラットルスネーク」その他数種を購入したが、特に「ラットルスネーク」はよい成績を挙げた。
この品種は長楕円形で大柄の縞があり、皮が厚く輸送に耐えたので「荻生西瓜」と名づけ、富山市総曲輪で販売したところ非常に好評を博し、一般農家にその有利なことが知られ次第に普及した。同40年頃には下新川の特産として黒部川沿岸一帯に栽培され、同42年(1909)皇太子(大正天皇)が来県された際、荻生西瓜を黒部川の清流にちなんで「黒部西瓜」と改め、三日市農学校で栽培したものを献上した。
収穫期には、黒部駅(当時三日市駅)に山と積まれ壮観であった。取引き先は、主として関西方面で、大正の初めから昭和30年代まで続いた。
八幡社境内には、その功績をたたえた顕彰碑があります。